「もっと優しい旅への勉強会」定例会報告

2001年4月 定例会の報告
「車いすでの北米大陸横断旅行について(Part2)」

講師:TARO’s Project代表 服部一弘氏

日時:2001年4月19日

会場:JATA会議室

4月の勉強会は、3月に引き続きTARO’S PROJECT代表の服部一弘氏を講師にお迎えして北米大陸横断のお話をしていただきました。前回の勉強会では時間が足りず、到着までお話が聞けませんでした。ぜひ最後までお話を聞きたい!というこちらの要望に、お忙しい中、お答えいただいての再登場です。

TAROさんのお話

先月はフロリダにおりてきたところまでお話しました。ざっと復習すると、カナダの東海岸ノバスコシア州シドニーにある、かつて私が入院した病院前から、ちょうど14年後の受傷の翌日にあたる2000年8月30日にスタートし、ボストン、ワシントンDC、アトランタ、フロリダと下ってきました。このさきが今月のお話となります。

マイアミ~キーウエスト

マイアミに入るとその気温の高さに驚きました。摂氏40度ぐらいはあります。腕まくりをしたら、ひぶくれしてしまうような陽射しです。
マイアミあたりには一週間ぐらい滞在しました。あまり治安のいい場所ではなく、銃を構えた警官を見かけたり、テレビドラマに出てくるような光景も目にするような、ちょっと犯罪の匂いがするような街でした。そんなところですから、治安のよい宿を探そうとするとどうしても料金が高くなってしまいます。仕方なく、少し郊外に泊まりました。しかし、そこでもハンディキャップルームはありました。ただし使い勝手はよくないのですが。マイアミからキーウェストンまでは、どこまでもまっすぐな道が続き、退屈な道でした。しかし、フロリダ半島を抜けると、ものすごく青い海が見えて、その海の美しさに感動しました。
キーウェストンには二つのKOAがあり、そのどちらからもきて欲しいといわれていて、寄りました。どちらにもハンディキャップルームがありました。フロリダに近い方はシャワーと手すりがついたトイレがあり、利用可能でした。キーウェスト側は高床式、スロープを利用してシャワー室へアクセスすることができます。シャワーは車いすのままでは利用できないので、シャワーチェアを使います。
私は自分の誕生日、9月21日はヘミングウェイの小説を感じさせるであろう、キーウェストで迎えたいと思っていました。キーウェストまでの道は自然豊かですばらしい光景でしたから、さらにその思いは強くなったのです。
しかし、キーウェストに入ると、かの地はすでに観光化されており、まるで江ノ島のような感じ。お土産ややファーストフードの店が立ち並んでいました。少し、がっかりしましたが、そこでの夕焼けがすばらしかったのは今でも忘れられません。赤とオレンジがグラデーションになり、雲に反射し、海に反射し、青が混ざっていくような…なんといってよいか。またそこでは、レース用のような速く走れるバイクに乗っていてけがをしたおじいさんにも会いました。彼は、懲りずにけがが治ったらさらに速いバイクに乗るといっていました。道端の大道芸人に集まる人の中には、車いすの女の子がごく自然にそこにいました。
キャンプ場に帰って、事故後はじめて水につかりました。お風呂には入っていましたが、プールや海といった水には事故後はじめてでした。浮くのは簡単でしたが、泳ぐ段になると沈んでしまう。水に顔をつけるのが怖いと感じました。そこにペリカンが飛んで来たりして…。
私はフロリダ半島を一周したのですが、アメリカでは200キロガソリンスタンドがないというのは当たり前です。車だったら60リットル積めるし、たいして気にならないのですが、私のトライク(三輪バイク)の場合、20リットルしか積めず、1リットル12キロしか走れないので、200キロはかなりきわどいことになります。半島を行く前に、ポリタンクを3つほど買い、それにガソリンを積めていこうと計画していました。が、スタンドでガソリンを入れることを忘れて走り出してしまいました。幸い、数十マイル先にスタンドありと表示があったので、安心していました。ところが、そのスタンドについてみると…閉鎖されていました。これは…ヤバイ…。なんとか燃費走行をしてやっとの思いで次のスタンドまで辿りついたのでした。

ニューオーリンズ~メンフィス

次はニューオリンズに向かいました。この街は高層ビルがあると思えば、その合間に駄菓子屋みたいな古い店があったり、空き地があったりという変化の大きさを感じさせる街でした。KOAは大体無料にしてくれていたのですが、ここは有料でした。そのかわりというのか、女主人が夜、飲みにつれていってくれました。赤レンガの倉庫を改造して1階は皆、生バンドが演奏するバーになっています。若者もお年よりも混ざって一緒にジャズやロックの音楽を聴きながら酒を飲む姿は日本ではなかなか見られない光景だと感じました。
メンフィスといえば、プレスリーなのですが、私はむしろインディアンの博物館のほうに興味があり、いってみました。そこにはインディアンの歴史が書かれていたのですが、先住民への占領の歴史や差別の問題などは書かれておらず、いずこも同じ、「さすがアメリカ」とは言えませんでした。

トライク不調?/ロッキーとの出会い

メンフィスについた頃からトライクから嫌な音がしていました。その日は日曜日で、あくと思っていた修理の店が開かず、仕方なく北に向かって走り出しました。すると途中でものすごい音がして、振動もすごい。そしてアクセルを戻してスロー走行しました。急いでスタンドに寄ったのですが、ここでは修理ができないといわれ、仕方なく、また北に向かって進んでいきました。
しかし、高速に乗って30分としないうちにまたもすごい音と振動。今度はクラッチがきかなくなりました。これはつまり「止まれない」、「止まったら2度と動かせない」ということを意味します。つまりブレーキをかけることはできないわけです。こんな状態でだましだまし運転し、Uターンを繰り返してやっと目的の修理店に辿りつきました。
しかし、ここでも修理を断られました。もうこれ以上走ることはできません。何とかならないかと話していると、中から女性のオーナーが出てきて話を聞いてくれました。つたない英語とカナダの新聞で取り上げられた記事を見せながら、事情を説明しました。一通り話したところで、今回の旅行の趣旨を理解してくれ、非常に感動してくれて、トライクの輸送をご主人に頼んでくれるということになりました。お昼ご飯までご馳走になり、彼らの助けでなんとか次の修理店へ行くことができました。しかもご主人はモーテルまで探し、値段の交渉までしてくれたのでした。
修理店では私のいうこともよく聞いてくれず、ただクラッチホースをかえるということしかしてくれませんでした。交換後、走り出して30分もしないうちにまたもすごい音と振動がきて、今度は全く動かなくなってしまいました。途方にくれましたが、とにかく戻るしかないと、車いすで戻り出しました。手を挙げても車は止まってくれませんでした。後でわかったことですが、高速を車いすで走っているという不自然さから、「誰かが裏にいるのでは?」という不信感を与えていたようです。砂利道をなんとかこいでいると、車から老夫婦が声をかけてくれ、話している内に違う車の人も声をかけてくれ、携帯電話で修理店に連絡をとってくれました。修理店では、もうやりたくないといわれてしまい、トライクの部品を作っている工場を紹介されました。イリノイ州近くです。しかし、そこまでトライクを持っていかなければなりません。老夫婦はなんとか安く運んであげたいといろいろと手を尽くしてくれました。挙句の果てには、家にも泊めてくださり、様々なルートを探してくれ、最終的には木材を運ぶトラックが安いとつきとめてくださいました。しかし、これは保険が利かないため、少々高かったのですが、保険の利く3Aという会社に頼むことにしました。
イリノイ近くの工場では、メカニックのロッキーとの出会いがありました。最初の修理はその日のうちに終り、夕方にはテスト走行をしました。しかし、そこでまたひどい音と振動で車が止まってしまいました。なんとかとおりかかった車に助けられ、工場に戻ることはできましたが、修理は振り出しに戻りました。私は自分がメカニックであることもあり、これから何度かこうした故障が起った際に自分でどうしたらいいか知っておきたいと思い、修理に自分も加えて欲しいと頼みました。本来ならそうしたことは許されないのですが、ロッキーは承知してくれ、彼と試行錯誤、修理を行いました。最終的にはスプリングを強くするか、ベアリングを強くするか、二者選択を迫られることになりました。どちらかをとればどちらかが弱くなる、リスクをしょった上での選択です。そして私はスプリングを強くすることを選択しました。ロッキーもその方針に従ってくれました。後は私の運転技術にかかることとなりました。

セントルイス~ブランソン~エルパッソ

セントルイスを西へ向かい、ブランソンに到着しました。山の中にブロードウェイがあるようなところで、たくさんのショーが行われていました。その一つにショージ・タブチという日本人のショーがあり、連絡をとると見にきてくれといってくれました。バイオリンを組み合わせたショーの中で、彼が「上をむいて歩こう」を日本語で歌ってくれました。トライクの故障、精神的な疲れ、肉体的な疲れと、さまざまなことが重なってぼろぼろな状態だっただけに、この歌が妙に心に染みました。ここで自分がくじけてはせっかくのこれまでの人々の支え、ロッキーとの約束、みんなの期待、すべてがだめになる。なんとか走ろうと心に決め、ブライストンを後にしました。
ちょうどこの頃インターネットでの貝谷くん(筋ジストロフィーで現在運転免許取得を目指している)との対談が行なわれることになっていました。最初についたキャンプ場では話がとおっておらず、電話が使えなくて、急いで移動しテキサスのモーテルへ。なんとか間に合いましたが、ひやひやものでした。そこからダラスへと向かいました。ダラスは暑いと思っていたのですが、日がかげると寒く、サンダーストームという、滝のような雨が時折降ります。前が見えない中を走り、またからからに晴れる中を走り…という状態が2日間続きました。
エルパッソでは、知人のお母さんを訪ね、歓迎されました。彼女は76歳、片麻痺で一人暮しですが、emailもこなすスーパーおばあちゃんです。彼女の「がんばれ」という言葉を背にグランドキャニオンへ向かいました。

グランドキャニオン~ラスベガス~ロサンゼルス

ここで私ははじめてサボテンが自生しているのを見ました。十手みたいなものが植わっていて、「砂漠にきた!」という感じです。
グランドキャニオンは、受付で障害者であることを言えば特別に車で中を回ることができます。そのことを知らずに私は最初バスを使って苦労したのですが、後からは知り合ったチェコの若者たちと車で回ることができました。
次にラスベガスに向かいました。ここでは日本からの友人たちと合流し、受傷後はじめてジェットコースターに乗りました。どの乗り物も車いす利用者も乗ることができましたが、エレベーターが遅く、ずいぶんとほかの客を待たせてしまうことがありました。しかし、誰も文句も言わずに待っていてくれ、そのことがとても嬉しかったです。
また、ここからテレビクルーがつくことになり、今までとガソリンスタンドの対応が異なる場面にも遭遇し、テレビの威力を感じました。トライクの調子はもうあとどれくらい持つのか…。部品が外れたり、はまったりしながら走っていました。しかし、ゴールまで後2日と迫っていて、とにかくロサンゼルスに向かっていくしかないという状態でした。前日はロサンゼルスで一泊しました。

GOAL(サンタモニカ)

次の日、天気は晴れ、サンタモニカ近くのレストランで、ロブスターを食べました(受傷したのがロブスターを食べにいく途中でした)。そしてサンタモニカに向かいました。ゴールにはみんながワーッと集まっていてくれました。
このゴールはみんなのお蔭だとつくづく感じ、感動したのですが、でもなぜか一人になりたくて、桟橋の端で海を見ながら、この2ヶ月間のことを走馬灯のように思い出していました。一つ一つがリアルに、ほんとうに頭の中を巡りました。おまけですが、迎えに来てくれた人たちが先に帰るということになって、私はみんなを見送り、また一人になったのでした。そして一人でトライクを日本へ向かう船に乗せなければならなかったのです。ロサンゼルスでは故障するのが恐くて、もうほとんどトライクには乗っていませんでした。しかし、なんとか船までは辿りつくことができました。トライクは本牧にきて、とうとう走らなくなりました。
ほんとうにぎりぎりの旅でした。この旅でいろんなものをもらいました。いろんなことを体験していろんな方面でいろんな話をすることができるようになったと思います。それを今後の人生で生かしていきたいと考えています。ご清聴ありがとうございました。

質疑応答

(感想):自分自身がアメリカ旅行の経験が多く、服部氏の旅行先を体験しているせいか、非常に身近に今回の話が聞けた。氏の体験ひとつひとつがすばらしく、自分が旅行先で受けた印象が蘇ってくるようであった。このプロジェクトがすばらしいと思う。改めて拍手を送りたい。

Q:ジェットコースターはどうだったか?車いすの人が乗るための工夫などはあったか?

A:特になかった。足が中に浮いてしまうが、それだけである。自分はバイク用の安全靴をはいていたので特に問題はなかった。

(感想):話を聞いていてスケールの大きさ、イメージがわいてよくわかった。施設の中で生活している人はなかなか外に出たがらない。自分は外に出ていっていろんな体験をして欲しいと思う。今日の話はそういう人に刺激になる話であると感じた。

A:外に出たらこんな楽しいことがあるよと示したい。私も施設にいる人を日々飲み屋につれていったり、一人、また一人と脈のある人から徐々に外に出すようにしていきたい。楽しみを知れば外に出たいという気持ちになるのではないか。まず出てしまう。そして不安さえも楽しみに変えてしまうような、そんな風になるといいのだが。

Q:とても勇気のあることだと思った。中途障害の人はなかなか前向きになれない人もいるが、どういうきっかけで服部氏は前向きになれたのか?ふっきれたきっかけを聞きたい。

A:私はふっきってない。ふっきるということではない。私は私であり、歩いていたときも現在も形は変ったかもしれないが、連続したものとして現在は捉えている。しかし、かつて、退院してすぐ、「自分は変わった」と思っていた時期があった。自分は何もできなくなったと思っていた。それが多分自分が連続していない状態だったと思う。一つの大きなきっかけとして、受傷後のカナダからの帰りの飛行機の中で、カナダ人の老夫婦と出会ったことがあると思う。彼らと飛行機の中で話していて、私が自分はできなくなったと、I can't notと言ったら、彼らが非常に怒り出した。ものすごい勢いで怒って、そんなこというなと。そんなこといってはだめだと。やり方はいろいろある。ずっとChallengeだと。あきらめてはだめだといってものすごく怒った。そのとき私は、できないという気持ちを持つことにたいして彼らは怒ったんだなと思った。
また、カナダのリハビリ病院でも、こう言われた。「あなたたちはいったん赤ちゃんになったんです。だけど、一度大人になったことがある、経験があるんだから、わかるんだから、どんどん自分で取っていかないと」。そういう考えが今につながっていると思う。

TARO’s Project
URL:http://www.is22.co.jp/t-prj/

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